朝、窓を開けると湿った土の匂いがした。昨夜の雨が庭の隅に小さな水たまりを残していて、その表面に空の青が映り込んでいる。鳥の声が、まるで誰かを呼ぶように響く。
書きかけの物語を読み返していたら、登場人物の一人が勝手に動き出した。彼女は私が予定していた台詞を口にせず、代わりに「それは違う」と呟いた。ペンを持つ手が止まる。彼女の言うとおりかもしれない。私は彼女に嘘をつかせようとしていたのだ。
午後、友人から電話があった。
「最近どう?」
「書いてる」
「相変わらずね」
短い会話だったけれど、声の調子に安心が混じっていた。言葉にならないものが、電話線を通って届く。
夕方、書き直した場面を読む。彼女は今度、自分の言葉で話している。嘘ではなく、真実でもなく、その中間にある何か――それが物語なのかもしれない。完璧ではないけれど、昨日より少しだけ近づいた気がする。
窓の外で風が木の葉を揺らしている。雨の匂いはもう消えて、夜の冷たい空気だけが残っている。物語の結末はまだ見えない。でも、焦らなくていい。彼女は自分で歩き出したのだから。
私はただ、その後ろを追いかけていけばいい。ペンを置いて、明日への余白を残す。
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