あの夜、取材に行くべきではなかった。 友人の紹介で連絡してきた女性は、「絶対に本物の話です」と繰り返した。場所は閉校になって三年が経つ廃小学校。話の内容は、「音楽室の鏡」についてだった。 彼女の話によ...
あの夜、取材に行くべきではなかった。 友人の紹介で連絡してきた女性は、「絶対に本物の話です」と繰り返した。場所は閉校になって三年が経つ廃小学校。話の内容は、「音楽室の鏡」についてだった。 彼女の話によ...
夜の十一時を過ぎた頃、私は駅のホームに一人立っていた。 終電まであと十分。蛍光灯がひとつ、ゆっくりと明滅していた。 反対側のホームに、女が立っていた。
夏の終わり、田中みずきは終電に乗り損ねた。 駅から家まで、歩いて二十分。慣れた道だ。でも、こんな時間に歩くのは初めてだった。 街灯の光が、アスファルトに細長い影を作る。みずきの後ろに、みずきの影が伸び...
その夜、残業を終えて会社を出たのは、もう零時を過ぎた頃だった。 駅まで続く商店街は人気ひとけがなく、シャッターの並ぶ通りに自分の足音だけが響いていた。信号が変わるたびに立ち止まる。赤、青、赤、青。誰も...
去年の夏、友人の佐和子から聞いた話だ。 彼女は高校三年の受験生で、その日も図書室で夜遅くまで勉強していた。消灯時間の少し前、トイレに立った。廊下には誰もいない。自分の足音だけが、磨き込まれた床に長く響...
放課後の渡り廊下は、いつも少し暗い。
三月の終わりの金曜日、美紀は一人で教室に残っていた。担任の井上先生に頼まれた、学年末の配布物を数え直すように言われたのだ。数え間違いが二度あった。「ちゃんと数えなさい」と低い声で言われ、また一から始めた。窓の外では、夕暮れの色が橙から紫へと変わり始めていた。廊下に足音はなく、たまに遠くで金属の扉が閉まる音が聞こえるだけだった。校舎が、静かに息を潜めているようだった。
一時間近くかけて、ようやく数え終えた。美紀は書類を封筒に入れ、荷物をまとめて廊下に出た。
廊下は長く、薄暗かった。蛍光灯がいくつか消えていて、床に点々と光と影が続いていた。西日が窓から斜めに差し込み、美紀の影を壁に長く伸ばした。その影は、壁を伝って校舎の奥へと消えていく。
洗面台の前を通りかかったとき、美紀は足を止めた。
鏡の中に、誰かが映っていた。
振り返った。廊下には誰もいない。もう一度、鏡を見た。映っているのは確かに美紀自身の姿だった。セーラー服、結んだ黒髪、脇に抱えた封筒。細部まで、すべて同じだ。
だが、何かが違った。
鏡の中の美紀は、笑っていた。
本物の美紀は笑っていなかった。
鏡の中の唇が、ゆっくりと動いた。
声は聞こえなかった。何かを語りかけているのかもしれなかった。口が動くほどに、笑みが少しずつ広がっていった。それは美紀の顔を借りながら、美紀ではないものの笑みだった。目だけが、ぴくりとも動かなかった。見つめ返すほどに、笑みは深くなった。
美紀は走った。
階段を駆け下り、昇降口を飛び出し、校門を出るまで振り返らなかった。息が切れ、膝が笑っても、足を止めることができなかった。
翌朝、クラスメートの加奈子が話しかけてきた。
「昨日、渡り廊下で美紀を見たよ。声かけようとしたんだけど」
「……何時ごろ?」
「六時は回ってたかな。洗面台の前に立ってた」
美紀が学校を出たのは五時前だった。渡り廊下には寄っていない。
「声、かけなかったの?」
加奈子はしばらく黙った。
「なんか……変な感じがして。こっちを向いて、口がパクパクしてたから」
「何て言ってたか、分かった?」
加奈子は首を振った。「読めなかった。でも、何度も何度も、同じ言葉を繰り返してた」
それきり、加奈子は言葉を続けなかった。翌日から、加奈子は美紀と目を合わせなくなった。話しかけても「なんでもない」と首を振るだけだった。二週間後、加奈子は転校した。引っ越し先も、転校先も、だれも知らなかった。
しばらくして、別のクラスの女の子が美紀に言った。
「鏡を見たの?」
思わず頷くと、女の子は少し黙った。
「私も去年、見た。見ないようにするしかないよ」
「もし見てしまったら?」
女の子は答えなかった。
翌日から、その子の席は空になっていた。
美紀は今も、鏡の前で立ち止まれない。
鏡の中の自分が、先に笑い始めるような気がするから。
それに——もし鏡の中にいるのが本物だとしたら、外にいるのは誰なのだろう。
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