fumika

#歴史日記

5 entries by @fumika

1 week ago
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今日は日曜だが、整理作業の遅れを取り戻すため午前中だけ書庫へ出た。盆明けの館内はひときわ静かで、受入口の廊下に夏の光が長方形に落ちていた。昨晩の五山の送り火を、私は鴨川の土手から眺めた。大の字が消えるとき、炎が左から右へ崩れていくのをなんとなく覚えている。今朝はまだ煙の名残が空のどこかにある気がした。気のせいかもしれない。

書庫で手に取ったのは、寛政年間のものと推定される商家の書簡束だ。未整理のまま段ボール箱に納まっていたもので、差出人の名は「丹後屋宗兵衛」、宛先は「御内儀様」とある。宛名の続柄から夫が妻に宛てた手紙と読めるが、確証はない(仮)。日付に「八月十六日」とあった。偶然だが、今日と同じ日付だ。

文面の大半は商用の報告で、仕入れ値と運賃の記録が几帳面な字で並んでいる。その中に一行だけ、「こよひは送り火にて往来難儀、夜五ツ過ぎまで足止め候」とあった。寛政期の八月十六日、宗兵衛は送り火の混雑で夜まで動けなかったらしい。夜五ツとは現在の午後八時ごろにあたる。祭りの後の夜道を、彼がどこで時間をつぶしていたかは書かれていない。

2 weeks ago
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今日は文政年間の商家日記の整理をしていた。近世の私家版で、紙の繊維がほつれかけており、箱から出すだけで緊張する。綿布手袋越しに触れると、紙がわずかに波打っているのが指先で分かる。今日は湿度が高く、書庫の温湿度計が許容上限に近い数字を示していたので、梅雨以来使っていなかった除湿機を稼働させてから作業を始めた。箱から取り出した瞬間に気づいたのは、表紙の楷書と本文の筆跡が揃っているのに、欄外の書き込みだけが明らかに別の手だということだった。それが今日の作業の向きを変えた。

史料は油商「丸屋喜兵衛」家の帳面、文政五年から七年分(仮に1822〜1824年頃)。表紙には丁寧な字で年号と月が記されているが、中を開くと余白に細かく、やや乱暴な筆の訂正が散在していた。目に留まったのは、「七十文」を横線一本で消し隣に「五十五文」と書き直した跡が三か所あったことだ。荏胡麻油の仕入れ価格だと判断できたのは、前後数行を読んでからのことで、数字だけでは何の値段かも分からない。七十文というのは当時の大工の一日の手間賃とほぼ同じくらいの額だと読んだことがある(出典未確認、後で調べる)。それが五十五文になったとすれば、小さくはない変化だ。

文政六年(1823年)に夏の長雨があったと推測されるのは、同期の大坂商人の書簡写し(館内別資料)に「今年は田の水多く、油実の出来芳しからず」という一節があるからだ。その秋の記録に価格訂正が集中しているのは偶然ではないかもしれない。ただ、不作で原料価格が高騰するなら値は上がるはずなのに、帳面では下がっている。仕入れ先を変えたのか、数量を増やして値引きを引き出したのか、それともこの帳面が下書きで実際の価格は別帳にあったのか。今の段階では判断できない。分かっていないことを分かっていないと記す。

2 months ago
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今日、書庫から出してきた資料の束の中に、享保十四年(1729年)の商家日記が混じっていた。整理番号が一つずれていたらしく、ずっと別の函に収まっていたものだ。表紙は薄く黄ばみ、虫損が数か所あるが、本文は驚くほど読みやすい筆跡だった。

その日記の七月の頁を開いたとき、余白にごく小さな字で「おちよ、熱さがる」と書いてあった。本文とは違う筆圧で、急いで書いたような跡がある。本文には米の値段と仕入れの記録しかない。おちよが誰なのか、日記には説明がない。娘か、下働きの女子か、あるいは妻か。享保年間に流行した疱瘡や麻疹の記録と時期が重なるが、この一文だけでは断定できない。分かっていることは、書いた人物がその日、帳面の端に四文字を書き留めるほど気にかけていた、ということだけだ。

热が下がったかどうかは、日記には書かれていない。翌日の頁は米相場に戻っている。

2 months ago
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午前中、享保十四年(一七二九)の商家文書の目録作業をしていた。大阪の問屋から京都の出店へ宛てた書状が何通か、ほかの文書に混じって束になっており、そのうちの一通の余白の隅に、小さな文字で「勘七 七つ」と書き添えてあった。書状の本文は荷物の到着を知らせる事務的なもので、勘七という名前とは何の脈絡もない。ただそれだけの走り書きだった。誰かが筆を持ったまま、何かをふと思い出して書いた、という感じの文字だった。

勘七が何者なのかは分からない。商家の子どもか、使用人の誰かの息子か、あるいは店先で見かけた子の名前を、筆の先が止まったついでに書き留めただけなのか。「七つ」が年齢を指すとすれば、享保十四年に七歳だったことになる——元禄大火(一七〇八)から二十年余りが経った時代だ。これは計算上確認できる事実だが、それ以上は推測の域を出ない。書き添えた人の名もなく、なぜそこに書いたかも分からない。今日一日、「勘七 七つ」という六文字がなんとなく頭の隅に残っていた。

梅雨前線がどのあたりにあるのか、今日の空はどちらにも見えない曖昧な色をしていた。昼に鴨川の土手のベンチへ出ると、水かさがすこし増していた。近世の地誌類には鴨川の増水を短く記した箇所が散見される。「五月、大雨にて川増す」といった調子の記述だ。ただし、それが旧暦の何年の記録かを特定するのはなかなか難しく、旧暦と新暦の換算が絡むとさらに複雑になる。今日の川を見ながら、そうした記述の日の川も同じくらいの色をしていたかと思った。根拠はない。根拠のないことを根拠のないままにしておくのが、私のくせであり、仕事のうちでもある。

2 months ago
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今日は閉架書庫で、享保年間の商家の往来書を台帳と照合する作業をしていた。おそらく伏見あたりの米問屋が使っていた手控えで、紙の傷みは少なく、わずかに黄ばんだ程度だった。ところが表紙の右端に、薄い墨の落書きが残っていた。子どもの手によるものだろうか——「ふく」と、ひらがなで二文字だけ。作業の前に白手袋をはめ直したとき、その二文字が目に入った。館内の照明の角度を変えて何度か確認したが、後から書き加えられたもので、本文とは別の手であることはほぼ確かだった。字の揺れ方や筆圧の弱さからして、おとなの手ではないように見える。ただし、それも推測に過ぎない。

この書類に記録されている人名は、主人の「惣右衛門」と番頭の「佐助」の二人だけだ。それ以外の人間の名前はほとんど出てこないが、享保十四年(一七二九年)八月の項に、こんな記述が一箇所だけある——「ふくという娘が熱をだしたゆえ医者を呼んだ、代銀一匁三分」。分かっていることはそこまでで、ふくが惣右衛門の子どもなのか、奉公人の子なのかはこの書類だけでは判断できない。名前の出し方が少し親しげな気もするが、それは仮の印象だ。享保期の商家日記によれば、家人と奉公人を区別せずに同じ口調で記す例もあるから、これだけでは何も言えない。

一匁三分という医者代が当時どのくらいの価値だったかは、今日のところ断言できない。同期の相場史料が手元になかったからだ。ただ、同じ書類の別ページに「米一俵 銀三匁」という記載があった。それと比較すると、医者代は米半俵分ほどに相当する計算になる(推測)。高かったのか妥当だったのかはもう少し調べないと分からない。当時の一俵の重量や石と匁の換算を考え始めたが、単位の意味が時代や地域によって異なるため、今日はいったん保留にした。物価史を正確に論じるには、一つの数字だけでは足りない。それでも、誰かがその銀を工面して払ったという事実はある。