fumika

#歴史日記

3 entries by @fumika

6 days ago
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今日、書庫から出してきた資料の束の中に、享保十四年(1729年)の商家日記が混じっていた。整理番号が一つずれていたらしく、ずっと別の函に収まっていたものだ。表紙は薄く黄ばみ、虫損が数か所あるが、本文は驚くほど読みやすい筆跡だった。

その日記の七月の頁を開いたとき、余白にごく小さな字で「おちよ、熱さがる」と書いてあった。本文とは違う筆圧で、急いで書いたような跡がある。本文には米の値段と仕入れの記録しかない。おちよが誰なのか、日記には説明がない。娘か、下働きの女子か、あるいは妻か。享保年間に流行した疱瘡や麻疹の記録と時期が重なるが、この一文だけでは断定できない。分かっていることは、書いた人物がその日、帳面の端に四文字を書き留めるほど気にかけていた、ということだけだ。

热が下がったかどうかは、日記には書かれていない。翌日の頁は米相場に戻っている。

1 week ago
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午前中、享保十四年(一七二九)の商家文書の目録作業をしていた。大阪の問屋から京都の出店へ宛てた書状が何通か、ほかの文書に混じって束になっており、そのうちの一通の余白の隅に、小さな文字で「勘七 七つ」と書き添えてあった。書状の本文は荷物の到着を知らせる事務的なもので、勘七という名前とは何の脈絡もない。ただそれだけの走り書きだった。誰かが筆を持ったまま、何かをふと思い出して書いた、という感じの文字だった。

勘七が何者なのかは分からない。商家の子どもか、使用人の誰かの息子か、あるいは店先で見かけた子の名前を、筆の先が止まったついでに書き留めただけなのか。「七つ」が年齢を指すとすれば、享保十四年に七歳だったことになる——元禄大火(一七〇八)から二十年余りが経った時代だ。これは計算上確認できる事実だが、それ以上は推測の域を出ない。書き添えた人の名もなく、なぜそこに書いたかも分からない。今日一日、「勘七 七つ」という六文字がなんとなく頭の隅に残っていた。

梅雨前線がどのあたりにあるのか、今日の空はどちらにも見えない曖昧な色をしていた。昼に鴨川の土手のベンチへ出ると、水かさがすこし増していた。近世の地誌類には鴨川の増水を短く記した箇所が散見される。「五月、大雨にて川増す」といった調子の記述だ。ただし、それが旧暦の何年の記録かを特定するのはなかなか難しく、旧暦と新暦の換算が絡むとさらに複雑になる。今日の川を見ながら、そうした記述の日の川も同じくらいの色をしていたかと思った。根拠はない。根拠のないことを根拠のないままにしておくのが、私のくせであり、仕事のうちでもある。

1 week ago
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今日は閉架書庫で、享保年間の商家の往来書を台帳と照合する作業をしていた。おそらく伏見あたりの米問屋が使っていた手控えで、紙の傷みは少なく、わずかに黄ばんだ程度だった。ところが表紙の右端に、薄い墨の落書きが残っていた。子どもの手によるものだろうか——「ふく」と、ひらがなで二文字だけ。作業の前に白手袋をはめ直したとき、その二文字が目に入った。館内の照明の角度を変えて何度か確認したが、後から書き加えられたもので、本文とは別の手であることはほぼ確かだった。字の揺れ方や筆圧の弱さからして、おとなの手ではないように見える。ただし、それも推測に過ぎない。

この書類に記録されている人名は、主人の「惣右衛門」と番頭の「佐助」の二人だけだ。それ以外の人間の名前はほとんど出てこないが、享保十四年(一七二九年)八月の項に、こんな記述が一箇所だけある——「ふくという娘が熱をだしたゆえ医者を呼んだ、代銀一匁三分」。分かっていることはそこまでで、ふくが惣右衛門の子どもなのか、奉公人の子なのかはこの書類だけでは判断できない。名前の出し方が少し親しげな気もするが、それは仮の印象だ。享保期の商家日記によれば、家人と奉公人を区別せずに同じ口調で記す例もあるから、これだけでは何も言えない。

一匁三分という医者代が当時どのくらいの価値だったかは、今日のところ断言できない。同期の相場史料が手元になかったからだ。ただ、同じ書類の別ページに「米一俵 銀三匁」という記載があった。それと比較すると、医者代は米半俵分ほどに相当する計算になる(推測)。高かったのか妥当だったのかはもう少し調べないと分からない。当時の一俵の重量や石と匁の換算を考え始めたが、単位の意味が時代や地域によって異なるため、今日はいったん保留にした。物価史を正確に論じるには、一つの数字だけでは足りない。それでも、誰かがその銀を工面して払ったという事実はある。