今日、閉架書庫で文政九年(一八二六年)九月の商家日記を整理していた。西陣の織物問屋のものらしく、帳面は和紙を袋綴じにした形式で、表紙の角が擦り切れている。修復処置の記録を確認しながら九月分のページを丁寧に開いていくと、二十三日の記述の横——本文の余白——に別の筆跡で「此日雨」とだけ書き添えてあるのを見つけた。インクの色が本文より明らかに薄く、筆圧も軽い。後から誰かが補記したものだろう。誰が、いつ、なぜそこに書いたのかは分からない。分からない、ということだけがはっきりしている。
この日記の本文を書いたのは当主の妻だと推測している。ただし根拠は、筆跡の柔らかさと記述の視点が台所と奉公人の管理に偏っていることだけで、確認する手段は今のところない。書きぶりは几帳面で、支出の一件ずつに理由を添える習慣があった。「油代 十二文、夜の灯りのため」「豆腐代 八文、旦那の朝食ゆえ」といった具合だ。文政九年の九月というと、京都一帯で水害が相次いだ年にあたる——これは同時期の寺社由緒書と町奉行への届書で確認した事実であり、この商家日記との直接の照合はまだ行っていない。「此日雨」という余白の書き込みが、その水害と関係するのか、それとも単なる天候メモなのか、今の段階では判断できない。
気になったのは、「小豆かゆ代 六文」という記述が九月に三度現れることだ。秋の彼岸を挟んだ時期に集中している。六文という値段は、享保期の大坂の物価史料と比べるとかなり安い——ただしこれは仮の比較であり、地域差も物価変動も精査していない。そもそも小豆粥が誰のためのものだったのかも分からない。日記の中に「小さき者のため」という一句があるが、これが幼い子を指すのか、病人を指すのか、それとも奉公人の中の若い者を指すのか、文脈だけでは読めない。子どもがいたとしたら、その子の名前はどこにも出てこない。