深夜のコインランドリーに、彼女が入ったのは午前一時を少し回った頃だった。
白い蛍光灯が一本だけ細く点滅している。洗濯機の振動が古いリノリウムの床を通じて靴底に伝わってくる。窓の外は商店街の路地裏で、どの店もシャッターを下ろして静まりかえっていた。店の奥に置かれた自販機だけが、橙色のランプを灯していた。他に客はいない。ガラスのドアを開けたとき、雨上がりの匂いがすっと入ってきた。アスファルトと土が混ざったような、少し甘い匂いだった。
引っ越しの前夜だった。
7 entries by @shion
深夜のコインランドリーに、彼女が入ったのは午前一時を少し回った頃だった。
白い蛍光灯が一本だけ細く点滅している。洗濯機の振動が古いリノリウムの床を通じて靴底に伝わってくる。窓の外は商店街の路地裏で、どの店もシャッターを下ろして静まりかえっていた。店の奥に置かれた自販機だけが、橙色のランプを灯していた。他に客はいない。ガラスのドアを開けたとき、雨上がりの匂いがすっと入ってきた。アスファルトと土が混ざったような、少し甘い匂いだった。
引っ越しの前夜だった。
深夜のコインランドリーで、陽子は上着のポケットに手を入れた。
出てきたのは鍵だった。
見覚えのない形をしていた。古い真鍮製で、先端がわずかに丸く削れている。いつから入っていたのだろう。三年前に古着屋で買ったコートだから、前の持ち主のものかもしれない。それとも自分の記憶が薄れているだけで、かつてどこかの鍵穴に差し込んだことがあるのかもしれない。思い返しても、何も浮かばなかった。
深夜のコインランドリーに、彼女ひとりだった。
雨はつい先ほどまで降っていて、ガラス扉の向こうの舗道には街灯の黄色い光が長く滲んでいた。空気はまだ湿っていたが、店内は機械の熱で温かく、どこかの洗濯機が低く唸りながら回っていた。彼女は持ってきた洗濯物をドラムへ押し込みながら、いつものようにポケットを確かめた。デニムのポケット、Tシャツのポケット、最後にジャケットの内ポケットへ右手を差し入れた。指先に、硬いものが触れた。
鍵だった。
段ボール箱を最後の一つ運び出したとき、部屋はもう誰のものでもないような顔をしていた。
コンロの跡に残った油の染み、窓枠の右隅にうっすらと刻まれた鉛筆の線。そういうものだけが残って、六年分の自分の痕跡はどこにも見当たらなかった。
宮本は荷物をすべてトラックへ積み終えたあとも、鍵を手に持ったまま部屋へ戻った。引き渡しは翌朝の十時。今夜だけは、まだここにいていい。
洗濯機が回り始めると、水の音だけが残った。
深夜二時のコインランドリーには、ほかに客がいなかった。蛍光灯がひとつ、天井のどこかで瞬いては落ち着く、を繰り返している。窓の外は雨上がりで、アスファルトに街灯が細長く映っていた。隅に置かれた自販機がかすかな唸り声を上げていて、それだけが時間の流れを告げていた。プラスチックの椅子に腰かけ、ガラスの向こうで回る衣類をしばらく眺める。何も考えないでいられる、数少ない時間だった。
明日、この街を出る。段ボール箱はすでに宅配業者に渡してある。家具もほとんど処分した。三年住んだ部屋は、最後に見たとき、床と壁と天井だけになっていた。残ったのは、今夜着ていた服と、クローゼットの奥で眠っていたジャケットひとつだった。捨てようかと思いながら、結局、籠に放り込んで持ってきた。三年前に買って、二年前からほとんど着なくなった、紺色のジャケット。それさえ洗えば、ここに置いていくものは何もない。そう考えたとき、妙な軽さのようなものと、説明のつかない重さのようなものが同時に胸にあった。引っ越しとはいつも、そういうものだった。
深夜一時を過ぎたコインランドリーで、石田は雨上がりの匂いをまとったまま洗濯物をドラムに押し込んでいた。
入口の近くの椅子に、折り畳みでない黒い傘が立てかけてあった。取っ手の革の部分が少し擦り切れていて、うすく「M」と読める文字が彫ってある。店内に他の客はいない。傘の持ち主がいつ忘れていったのか、わからなかった。五月の終わりの夜で、昼間の熱気が少しだけアスファルトに残っていた。
百円玉を三枚入れると、機械が揺れ始めた。石田はプラスチックの椅子を引いて座り、天井の蛍光灯を見上げた。一本だけわずかにちらついている。外の自動販売機が低く唸っていて、缶コーヒーのボタンのところだけが橙色に光っている。ガラス窓の向こうに濡れたアスファルトが見えた。人通りはなかった。五月の最後の夜は、どこか静かだった。
深夜二時のコインランドリーには、男が一人いた。
洗濯機の丸窓の向こうで、白いシャツが回っている。くたびれた旅行バッグを足元に置いて、男は自販機で買った缶コーヒーを飲んでいた。温かくも冷たくもなかった。蛍光灯が一定のリズムで点滅していて、ずっと前からそうだったのか、今夜だけなのか、区別がつかなかった。雨が上がって間もなかった。
上着のポケットに手を入れたとき、指先に何かが触れた。