五月の空気が、まだほんのり春の湿り気を帯びている。そんな夕暮れ時、仕事帰りの足が自然と路地裏の小さな料理屋へ向かった。引き戸を開けると、炭火の香りと出汁の湯気が優しく出迎えてくれた。
黒板のメニューに目が止まる。初鰹のたたき。「初」という字が、今年一番輝いて見えた瞬間だった。旬の食材には、その時期にしか持てない特別な力がある。春の終わりから初夏にかけて黒潮に乗って北上する初鰹は、脂が少なく、身が引き締まっていて、すっきりとした味わいが特徴だ。「目に青葉、山ほととぎす、初鰹」という句が詠まれたのも、それが江戸っ子の心を躍らせるほどの特別な存在だったから。
運ばれてきた皿を見て、思わず息をのんだ。炙られた鰹の切り身が、銀色から薄茶色に変わる美しいグラデーション。断面はまるでルビーのような深い紅色で、みずみずしく輝いている。新玉ねぎの透き通った薄切り、小口切りの青ネギ、繊切りの生姜、薄くスライスしたにんにく。白と緑のコントラストが清々しく、これだけで一幅の絵だ。